言葉のイメージと意味が面白い話。
新潟県出身の私。
方言、あります。
っていってもSVOC全部が方言ってわけではない。
だから上京して標準語を意識する事もなかった。
ただ、日常会話のふとした時に標準語になおせない言葉を見つけてしまう。
ちょうどこの間も、友達とばあちゃんについて話していた時の事。
私「うちのばあちゃん…………ねえ、多分通じないと思うけど、てっこってわかる?」
友「てっこ?わかんない。」
私「だよね。うちのばあちゃんてっこなんだよ。…てっこってわかんないよね。」
友「標準語にすると?」
私「……これ!って当てはまる単語はない。てっこはてっこなんだよ。」
お互いのばあちゃんの話から完全に ”てっこ” の話へ。
私「強いて言うなら、おおざっばとか乱暴とか雑とか適当とかガサツとかをいい感じにちょっとずつブレンドした感じ。」
友「雰囲気はつかめた!」
一応通じて解決したんだけどね。
この、言葉の持つニュアンスってすごく繊細よね。
日本語はわりと意味と単語がワンセットになっているけど、
方言ってニュアンス重視で結構ふわっとしている事が多い気がする。
”こうゆう雰囲気の時に言う言葉”
とか
”てっこみたいにいくつかの単語の意味が複合する言葉。”
とか。
だからふとした時に今回みたいな会話が起きるのよ。
私たち人間は ”言葉使い” なわけだけど、
”言葉使い” って魔法使いみたいでいい感じ♪
一つの単語に対するイメージってあるじゃない?
例えそれが同じ意味のモノだとしてもイメージって違ったりする。
例えば、
《古い》
この言葉の意味は、「物事が長い年月を経ているさま」。
同じ意味の言葉は、
- レトロな
- 時代がかった
- ビンテージの
- 古風な
- 昔からの
- 歴史ある
- 年季がかった
- 年代物の
- 骨董的な
など。
それぞれイメージは違うんじゃないかしら?
それからもう一つ。私たち日本人は漢字圏の人間。
同じ漢字圏でも国が違えば、言葉の意味が変わるのよ。
《奇怪》
日本にある言葉。意味は、
「常識では理解できない程に不思議な事。けしからぬ事。」
ところ変わって中国語での意味は、
「変わっている。こっけいである。おかしい。不思議。」
似たような意味に感じるかもしれないけど、
日本語ではけしからぬがある通り、叱責の意味的要素が強いのに比べて、
中国語はこっけいがある通り、叱責の要素はないのよ。
「なんか今日前髪変だよ。」とか言う時の ”変” のイメージ^^
こうやって一つの単語を取っても様々な色がある。
そうゆうのを考えながら言葉を組み立てていくと文章になる。
文章はいろんな色が混じり合った無限の世界。
今日は言葉フェチなブログでした^^
日向結う。
文章のおもしろさ。字のおもしろさ。そして勝手に筆跡鑑定に出された昔話。
文章はその人の内面が出るもの。
他人の文章を丸ごとコピーしない限り、
その人の内面がどうしたって出ちゃうのよ。
単語の選び方
動詞の使い方
語尾の使い方
行間の空け方
記号の使い方
などなどなど…
文章の中にはその人の情報がたくさん詰まっているもの。
字だってそう。
筆跡ってやつよね^^
筆圧
とめ・はね・はらい
略字
大きさ
並び方
などなど…。
字にもその人の内面が詰まってる。
”産まれてからこれまで生きてきた間に定着したもの”
もあれば、
”文章を生み出してるまさにその時のもの”
もある。
小説でも日記でもただのメモでも、
ブログでもFacebookでもね。
絶対出るの。書いている人自身が。
例えば、Facebook。
仕事メインのページだとしても日々の事を綴るわけだから、
やっぱりその人の個性が出るよね。
タイムラインに投稿するって事は、するなりの意味があるのよ。
その出来事に心が動いたから ”投稿” っていう行動をする。
感動・嬉・怒・困・悲・楽・萌・燃
とかの感情の動きがあって、それを
→伝えたい・反応を知りたい・見て欲しい
と、行動に移す。
その文面から個性がチラリ・ポロリするのよ。
擬音が多い人・そうじゃない人
数字が多い人・そうじゃない人
詰めて書く人・そうじゃない人
とか
仕事記事の合間のプライベート記事で
天気の事が多い人・そうじゃない人
草花の事が多い人・そうじゃない人
食べ物の事が多い人・そうじゃない人
などなど
おんなじ職業の人同士だとしても全くおんなじにはならない。
その人の色がでるし癖がでる。
よく使う言葉も人によって違う。
どんなにガッチガチにブランディングしてても、
自分で考えて書いている限りポロリしているものなの。
そこから、
この方はこんな人かしら?
こんな一面もあるんじゃないかしら?
ってその人像をほわわわんっとイメージするのがワクワクする^^
そしてなぜかピンとくる。
ジャッジとはまた違うのよ。
「この人はこうゆう人!!」
って決めつけたらそうゆう目でしか見れなくなるからね。
人は多面で奥深いから、文章で全てが完璧にわかるわけじゃない。
ただ、文章は ”その人らしさ” が滲むのは確か。
きっと誰しもが、文章を読む時は無意識に書く人の人物像を想像しているんじゃないかしらと思うわ♡
私の場合は昔から書いた人を思いながら文章を読むのが癖でね、
小説を読んでそのあとに作者の伝記や自叙伝を読むのが楽しかったの。
科学的なDNA鑑定があるように、筆跡だって鑑定出来ちゃう世の中よ。
その人が直筆で書いた文章だったらもっと色々ポロリするわよね。
19歳の頃かな。
愛人をやってた時期があったんだけど。
彼はちょっと束縛しがちな人だったのね。
別れ話の最中に一度手紙を送ったの。
そしたらね、彼はそれを筆跡鑑定に出したのよ!
私超びっくりよ!!
彼「この間もらった手紙なんだけど、筆跡鑑定に出して
君の心理状態を分析してもらったんだ。
何かに怯えているの?もしかして誰かに脅されている?」
こいつまじか?!ってなったわよね^^;
別れ話を出したあとに彼から恐ろしい手紙と共に大量のバラの花が送られてきたのよ。
手紙の内容に触れると長くなるからまたの機会にするけど。
それで、私も手紙で返信したのね。
そしたらこれよ!筆跡鑑定て!
私「あなたに怯えています。誰にも脅されていない!あなたがもう怖いです。」
そしたら彼やっと解ってくれて、無事に別れられたんだけどね^^
その時初めて、筆跡で心理状態まで分かっちゃう事を知ったのよ。
昔話はこの辺で^^
話が私の人生で一番恐怖した時代にそれちゃったけど、
それくらい字や文章ってその人のパーソナルな部分に関わっているのよ。
そしてそれがその人その人の味であり、カケラであり、色であるのよ。
日向結う。
自分がじぶんで居れる場所。自分の心が安全・安心な場所。私にとってそこはカンボジア。パート2
前回の記事
自分がじぶんで居れる場所。自分の心が安全・安心な場所。私にとってそこはカンボジア。パート1 - ないしょ安置所
前回はカンボジアという国の事、カンボジアの人の事をかいたのよね。
今回はカンボジアと私の事を書こうと思うわね^^
カンボジアに行った時の私の好きな過ごし方。
一つ目はいつも泊まるゲストハウスがあってね。
そこにはハンモックがあるのね。
そこに揺られての〜んびりするのよ。
パソコンをカチャカチャしたり、うとうとしたり、滞在している日本人と話したり、カンボジア人と話したり…
こんな感じ^^
それからこんな感じ^^
私にとってそれは何にも変えられないリラックスの時間なのよ♡
で、二つ目はお散歩がてら市場に行く事。
観光客が全くいないローカルな市場で地元の人たちに混じってお買い物をしたり、市場そのものの空気を満喫するのよ。
最後三つ目はお寺にお参りに行く事。
これもお散歩がてらね。
地元民が王様の庭って呼んでるガーデンにお寺があってね、そこでは地元の人がいつも参拝をしているのよ。
カンボジアは仏教とヒンドゥー教の2大宗教で、そこは仏教のお寺。
お寺の脇で綺麗にアレンジメントされた蓮の束とお線香を買って、靴を脱いで堂に入る。
堂には2体の仏像がいて、先ずジャスミン水で仏像の手や足を清める。
それから仏像の前に座って三度軽く五体投地をした後にな〜む〜。
のんびりまったりだけじゃなくて子ども達ともよく遊ぶ♪
みんなキラキラの笑顔でしょう?♡
この笑顔が大好きなのよ^^
のんびり気分の赴くままに居れるのが私にとってはカンボジアなのよ。
ここにいる時は色々な事の意味がなくなるのよね。
だから、
- お化粧もしない。
- ブラジャーもしない。
- いっそパンツも履かない。
日本にいる時は当たり前にしている事なんだけど、
「お化粧して一体なんの意味があるんだろう?」
とか
「下着窮屈><」
とかね。
愛想笑いもできなくなるし、人見知りもしなくなる。
というかする必要がなくなる。
何ていうのかな…ここにいると魂がむき出しになる感じなのよ…。
私は安心で安全。
私はわたしでしかなくて、空気を読んだり・気を使ったり・取り繕ったりなんだりした所で私でしかないのだ。
っていう感覚に心と体が勝手になるの。
それで、今まで心や体に装備してたもの全部外してただのシンプルな私になるのよ。
そうしてると思うのがね、
「あぁ、人間て7つの大罪の権化だわ…。」
「今の私は怠惰でしかないわ…。」
って事。
7つの大罪は
傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲よね。
今回はパートナーと一緒の旅だったから ”色欲” と ”嫉妬” もあったわ♡
魂がむき出しになるから、そうゆう人間として目を背けたい感情もありありと見えてくるのよ。
でもね、見えたせいで不快な気持ちには不思議とならないの。
それら感情をただそのまま感じるだけ。
- だらだらしたい。
- お腹すいた。
- ちょっとベタベタしたい。
- なんであの子だけ個人にお土産買った?
感じてそのまま外に出す。
それだけ。モヤモヤとかもしない。
うまく言えないんだけど、普段は ”自分はこうである!” みたいなのを心を装備する事で作っていて、それが機能して社会が回ってるんだと思うの。
でもそうやって頑張って社会と自分を考えなくていいから、装備をしている必要もないし、そのまんまのほほーんといれるんだと思うのよ。
こうゆう感情があるのが私なんだな…ってただただ感じて、
土地の・人の空気を感じている時間。
そんな時間を過ごしていると私がわたしの心と深く繋がるのがわかって、私はわたしと仲良くなれてるって感じる。
今まで生きてきた中でたくさん身に付けていた装備を全部外して、むき出しの私で居れるのがカンボジアだったのよね♡
今は日本でもそんなに装備せずに居るけど、それでもカンボジアは私にとって特別な場所。
人間にとって一番大事な ”生きてる” を全細胞でビシビシ感じれる場所。
最後に、
なんやかんや言いながらも、人は毎日戦ってるからね。
社会ってゆう大きなモノサシと自分のモノサシで。
自分のモノサシと自分のモノサシとで戦う時もあるよね。
たっくさんの情報が溢れてる世の中で、自分を守るのが大変な時はたっくさんあるのよ。
こうやってブログを書いているのも、読んでいるのも、
情報のやり取りで、思考のやり取りをしているのよ。
時には自分がどっかいちゃう事だってあるし、わかんなくなる事だってあるわよ。
自分軸が大事とか、マインドが…とか考え方…とか法則が…とか
いろんな事が言われてる世の中だけど、
その正解は自分しか持っていないし、それを見つけようと日々頑張ってたりするわけだから、自分が安心でリラックスできる、装備を全部外して魂のまんまで居られる場所があるといいわよねと思うわ。
あなたの魂がリラックスできる場所はどこかしら?
日向結う。
自分がじぶんで居れる場所。自分の心が安全・安心な場所。私にとってそこはカンボジア。パート1
実は私、昨日までカンボジアに居たのよ。
心と体のリフレッシュ、してきたわ♡
カンボジアはね、私にとってとても大事な場所なのよ。
初めて訪れたのは2011年。
日本との違いがあまりにもありすぎて脳みそのシワが一回無くなって造り直されたみたいな衝撃だったわ。
今までの自分の常識を一瞬でぶっ壊されたのよ。
それまでも海外は行っていたし、初海外で大はしゃぎ!ってわけではなかったんだけどね。
ショックとかの衝撃じゃなくって、
初めての土地なのに、
こんなにも生まれ育った日本とは違うのに、
自分にぴたっとハマりすぎちゃってそれがさらに衝撃的だったのよ。
その次の年には1ヶ月半位かな?滞在して、ますます大好きで特別な場所になったの。
それから1年に1・2回とか2年に1回とかで行くようになって…。
今回で6回目。
なんでカンボジア?
って思うでしょう?
私もそう思う。
なんでカンボジアが良くて、なんでこんなにも求めるんだろう…?
昔から考え屋さんな私にとって、カンボジア人のシンプルな考え方が沁みたんだと思うのよ。
ちょっと、私が感じているカンボジアの人と国について書くわね。
あくまで主観だし、カンボジア人って言ったって色んな人がいるからね。
先ずは歴史からね。
カンボジアは最近まで酷い内戦にあった国。
まだそれから30年位しか経ってないんじゃないかしら。
ベトナム戦争時代アメリカとベトナムに板ばさみにあって、結果、長い内戦が始まったのよ。
国をまっさらに戻してから再築するという、まさに破壊からうまれる創造を実行したのよ。
史上最悪な内戦時代は毛沢東にぞっこんだった ”ポルポト” という世渡り上手な男が統治していた時代なんだけどね…。
子どもは親から離され集団活動、新国のための洗脳再教育を受けたわ。
それから知識人とされる者は次々と収容され・労働を強いられ・殺されたわ。
知識人の枠は広くって、教師など先生と呼ばれる者をはじめ、メガネをかけている・腕時計をしている・文字が読める・海外に行ったことがあるや、手が綺麗…などなど、ぶっとんだ理由で再教育という名の処刑をされていったのよ。
ポルポトは ”国を指導する自分たち以外の知識人はいらない!”って考えだったの。
それによって、大好きな毛沢東の原始共産主義を自分なりに実践しようとしたわけ。
マルクス主義を中国風にアレンジした毛沢東の原始共産主義を俺なりにアレンジしたポルポトね。
党の名前は ”クメール・ルージュ”。
子ども達は再教育後、社会の重要な役割につくことになるの。今まで重要な役割にいた知識人は収容されてるか、殺されてるか、だからね。
それで子どもと大人が逆転する社会になるの。
お医者さんも子どもよ。
地雷は優秀な兵士として重宝され、沢山たくさんばら撒かれたわ。
それから長い間悪夢の時代が続き、殺された人は200万人とかそれ以上とか。
ポルポトから解放された時のカンボジアは国民の85%が14歳以下だったとか。
とんでもな歴史なのよ。
それからカンボジアの人々ね。
そんな過酷な時代があったにも関わらず、彼らは南国特有の穏やかさを持っていてね。
”今日の夜ごはんを家族で一緒に食べれたら幸せ100点”
って考え。
捉え方を変えたら ”その日暮らし” って思うかもしれないけど、大事な感覚だと思うのよね。
最近の日本では忘れられかけてる感覚だなと…。
ニュースで言われているみたいに、日本と比べたら物質的には貧しい国かもしれない。
卵と砂糖は大事なカロリーだし、太っている人はお金持ちだしね。
でもカンボジアに行っていつも思うのは、心がお腹がいっぱいに見えるのよ。
胃はお腹が空いてるかもしれないけど、心がお腹いっぱいに見えるの。
逆に日本に帰ってくると、胃はお腹いっぱいで、心がお腹すいてるように見える。
子ども達の目はビー玉みたいにキラキラ輝いている。
今を ”生きてる” のがビシビシ伝わるのよ。
どんなにおんぼろな家に住んでいても、着る物がたくさんなくても輝いて見える。私には。
そして彼らは大人も子どもも驚くほどに人懐っこい。
彼らはチラ見をあんまりしないのね。
気になったらジーーーっと見るのよ。
で、目が合うと笑ってくれる・手を振ってくれるの。
大人でも子どもでもね^^
で、仲良くなれる。とてもフレンドリー。
あんなに酷い虐殺の歴史があったのによ?
私の仲のいいカンボジア人達は、
「嫌なことがあったり悲しいことがあってもそれもひとつの経験で、今こうして笑ってるからいい。楽しく笑っていられるのが一番。」
ってみんな言うのよ。
楽天的とも言えるけど、私はその感覚がすごく好き。
全部がね、複雑じゃないの。
市場に行けば野菜も肉も魚も服も、雑貨も美容室もネイルサロンもぜーんぶが垣根なくあってね。
お肉も野菜もお魚もスーパーみたいにパックされずそのままで並んでいるの。
例えばお肉。
豚の頭から内臓まで全部がそのままパーツ切りにされて並んでいるの。
衣食住が丸裸に密接で、 ”生きる” を強く感じるのよね。
楽しむとか、笑うとか…
誰かが死んで悲しいとか…
誰かを想うとか…
ごちゃごちゃ考えずにただその感情をそのまま感じる。
すごくシンプルだけどなかなか難しいこの事を自然の摂理のように体現している気がするのよね。
カンボジア人と日本人の共通点もたくさんあってね、そのうちのひとつが妄想力の無さ。
真っ白な紙に「好きな物を書いていいよ。」っていうと何にも書けない子どもが多いの。
日本とカンボジアでは理由は違うけどね。
それはちょっと悲しいなと思う。
…いろいろ書き挙げたけど、もっとたくさん書く事あるけど、
良い・悪いの話でもなけりゃ、優・劣の話でもないのよ。
良いところ・良くないところはどこにだって何にだってあるからね。
これでざっくりカンボジア像が浮かんだかしら?
カンボジアの事はここまでにして次回、”私にとって” の部分、核の部分を書くわね^^
今回は長い文章になってしまって、ここまで読んでくださってありがとうございました^^
最後に今回に写真、いくつか貼っておきます!
日向結う。
肉感書籍をご存知ですか? 【江戸川乱歩の人間椅子】〜”女体で読む物語” kindleにて読めます!〜
今日は宣伝失礼するわね。
本の形態が変わってきている最近。
紙の冊子じゃなくて電子書籍として本が読める時代になったわね。
”紙の方がいい。” ”電子もいいじゃない。”
本に対する想いは人それぞれ色々あると思うのよ。
私は紙の本に囲まれてるのが幸せだから、私の毎日に紙の本は必須なのよ。
でも電子書籍もいい感じと思う今日この頃♡
さて、前置きはこの辺にして本題に入るわね^^
私、ふぇちモデルなるものもやっているのね。
手や足のパーツモデルじゃないのよ。
あんまりポピュラーじゃないフェチシズム作品のモデルなんだけどね。
どんなふぇちかというとね、例えば、
ウェット
メッシー
靴
包帯
そして…活字!
活字ふぇちと言う言葉があるかは知らんけど、無いなら私が提唱していくけど、
活字をふぇちとして世に出したくて出したくて…脳みそで妄想を繰り広げること数年。
やっと形にすることができたのよ♡
AmazonKindleから、私のふぇちコンテンツ・活字と寝るシリーズ第一弾が2月1日に出たの!
作品の内容だけど…簡単に言うと…
女体で物語を読む感じになっているの。
まるでセックスの始まりから終わりまでの中にいる気分で読む感覚。
最中なのに彼女の体には文章が…。
脳内は性欲と日本文学のせめぎ合いよ♡
記念すべき第一弾に使わせてもらった作品は、今年の1月に版権フリーになったばかり。
知ってるかしら?
椅子職人の変態がとんでもなく変態な事をやらかすショッキングなお話よ♡
彼の変質狂的嗜好とオーソドックスな性が交わる不思議な感覚をぜひ体験してみてくださいな。
※Kindleさん側が書いて下さった紹介文も、パンチがあって文学評的で結構いい感じよ^^
紹介のみの記事、最後まで目を通して下さってありがとうございます。
日向結う。
報告 ”ふぇち×活字” 撮影始まりました!
今日は風俗の話じゃなくて、ふぇちストとしての日向のブログです^^
昨日ブログ更新できなかったーーー( ;´Д`)
実は昨日、私のフェチコンテンツ
”フェチ×活字”
の作品撮りをしておりました!
初の試みが故、思った以上に難関だった…。
結局終わったのは朝の5:00!
終わった後は、カメラマンさんも私もヘロヘロ^^;
その甲斐あってとてもいい感じに出来たから、
来年の1月に解禁するのが楽しみでならないよ♡
フェチ×活字ってなんだ!?
って思うでしょ?
日常に溢れる活字をもっと日常に馴染ませる。
そんな作品たちなの^^
性癖が活字である日向の妄想を、色んな形で思いっきり具現化していくから、
来年乞うご期待!
※写真は活字の死骸♡
日向 結う。
部屋の乱れは心の乱れ。
私の中に1つの指針みたいなのがあるのよ。
”部屋の乱れは心の乱れ”
部屋が整っていない時って、大概心も整っていないのよ。
イメージしやすくすると、
↓
例) 今日は最近知り合って素敵だなと思ってる彼と初めての夜デート。
何を着ようかな?
いろいろ合わせてみよう^^
このワンピースはどうかな?
んー、ちょっとかしこまり過ぎかな…。
じゃあ、このタイトスカートにセーターは?
…ちょっと、やぼったく見える?
じゃあアレにしようかな?これはどうだろう?
デートを楽しんで家に帰ると、部屋はクローゼットから出した服が散らかり放題!
↑
デートの事で頭がいっぱいで他の事にかまってる暇なんて無い。
これってそうゆう事でしょう?
例みたいに、瞬発的な事以外でも言えるのよ。
洗濯物が山のように溜まっている。
とか
本棚の本がぐちゃぐちゃ。
とか
テーブルに物が散乱。
とか
シンクにお皿が置きっぱなし。
とか
お風呂の排水溝がつまりかけてる。
とか、いろいろあると思うのね。
これって全部、それらを元の状態にする気になれていないって事。
つまり、心がそれらを気にかけていられない状態。
なんだと思うのね。
人間は本来、自分のプライベートスペースを快適に過ごしやすくする習性があるのね。
で、大多数の人は、整頓されていて清潔感のある空間を好むと思うのよ。
でもそれが手についてない状態ってゆうのは、
心が他の事で手一杯でそれどころじゃないのよ。
だから心が乱れている=部屋が乱れているなのよ。
逆もしかりで、部屋が乱れるとだんだんと心も散らかりだして、乱れるの。
※ひっちゃかめっちゃかな空間が快適な人は例外ね^^;
自分の部屋ってさ、今の自分の個のプライベート環境なのね。
いわば今の生活のホームベースなわけよ。
だから自分の内側の状態が大きく影響して、反映するのよ。
ちなみに私の中のアウトラインは、洗濯物が山積みのとき。
お天気の関係でそうなっちゃった場合は別ね。
お天気のせいじゃないのに山積みの時は、
「一回ちゃんと休んで整えよう。」って思うのね。
なんでか?
洗濯物は特に自分の体に触れる物たちでしょう?
服に下着にタオルにシーツに…。
外に出て人に会うって時は服や下着を身につける。
それって、外に出た時は服や下着も自分の一部って事なのよ。
それをきれいにする気にならないって…。
ね?ちょっとやばい^^;
元の状態の部屋・快適な状態の部屋って人それぞれ違うと思うから、
これはこうなってると良い!とかはないのよ。
でも人それぞれの元の快適な自分の部屋を基点として、
自分の心の状態を目で見る参考にしてみてはどうかしら?
日向 結う。