フェチは世界を変える。なぜなら自由発想力が不可欠だから。なので自由発想力を辿ってみたよ。
【ウェット&メッシーって知ってる?】
世の中にはたくさんのフェティッシュがあるよね。
性癖ともくくれるね。
そのフェチの1つにウェット&メッシーって呼ばれるジャンルがあるのよ。
以下WaM。
wet&messy(濡れると汚す)
wet(濡れる)
messy(汚す)
2つのフェチのセットなのね。
大前提として着衣である事が多くて、
服を着たままお風呂に入ったり、
服を着たまま生クリームやケチャップにまみれたり。
パイ投げなんかは、メッシーよ^^
バースデーケーキに顔突っ込むのもメッシー。
喫茶店で水ぶっかけられるのはウェット。
公園の噴水に落ちるのもウェット。
そんなニッチなフェチが
昔むかしから存在しているのよ。
ぐちゃぐちゃになる様だったり、
衣服が透ける濡れ感だったりに
非常にそそられる人が世界中にいるの。
そんなWaMの動画作品があるって、知ってる?
「知ってる!見た事ある!」
って方はキワモノですなー!
やりよりますなー!
そんなWaM動画のモデルをやり始めたのが今から5年位前。
めくるめく妄想の性的倒錯世界に魅了され続けているわけですよ。私。
最近はモデルだけに留まらず、
日向結うプロデュースでコンテンツ展開
もさせてもらう事ができて最高にワクワクなのよ。
「なにそれ?よくわかんない。」
って人は感覚的には、
WaM好きさんにとってそれは
AVの様な、
癒しムービーの様な、
そんなもの。
なんとなく感覚掴めた?
フェチは往々にして奥深いもんなんだけど、
WaMっていうのもまた奥が深くてね。
ただ濡れor汚れていればいいってわけじゃない。
(それでもいいって人も、もちろんいるよ^^)
"ストーリー" が存在するのよ。
何がどうなって濡れるor汚すに至るのか?
濡れるor汚すに至った後はどうなるのか?
このストーリーがそそる気持ちをより煽る。
ストーリーは
がっつり決めて作る時もあるし、
何にも決めずに見る人の脳みそに任せる時もある。
どちらにしてもストーリーは存在するの。
映像を見て→脳みそでイメージ補完して→完成
このプロセスがあるわけよね。
脳みそで自分の中の完成に向けて創り上げるのよ。
私ね、思うんだけど、これってすごい!
「自由発想力が低下しているというこの時代で
こんなにも自由に発想して創り上げてる人が
沢山たくさんいるんだ!!」
ってワクワクするの♪
そしてその脳みそにとっても興味が湧く!
少しでもいいからその脳みそに関わりたい!
そう思うのよ。
今は気軽にスマホ映像でダイレクトに性欲を満たせる時代。
視覚と聴覚と右腕ダイレクトで脳みそは通り過ぎる気がするのよね。
反して官能小説は視覚から文字を取り入れ、
脳みそで映像化(イメージ化)して、右腕へ。
「別にAV見るのが悪いからエロ小説読め!」
って言ってるわけじゃないからね。
私もAVにお世話になる時ありますし。
ただこのね、脳みそでイメージ化って大事だと思うのよね。
って事。
極端に言ったら、
小学生の時に辞書で”女性器”って引いてなんか悶々する
みたいなイメージ感覚忘れないで!って事。
そのイメージ感覚が自己世界を彩り、広げるのだから。
そのイメージ感覚こそが自己発想力なのだから。
セクシャル事に限らずですが。
ちょっと話逸れるんだけど、
時代は流れているから、昔と今を良い/悪いでジャッジできる話ではないよね。
ただ、草食系男子だとか若者が淡白だとかって
なんでそうなったのかな?をちょっと考えたのよ。
一つの見方として
自由発想力が減って来ているからなのかな?
どうなのかな?
自由発想って言ったら幼稚園・小学校まで遡るよね。
そこで例えば、
- 先生の言った通りに折り紙を折らなきゃいけない。
- 先生の言った課題の絵を描かなきゃいけない。
- 先生が丸をくれる答えに寄せなきゃいけない。
- 外で好きに遊ぶ場所が少ない・無い。
ってなったら、自分の脳みそを使って考えて・想像して、
実践するパワーが養われない風になってしまうのかな?
そうかどうかは統計とってないからわからないけど、
そんな事があるとしたら悲しい気持ちだな。
誰が悪いわけじゃないから、やるせない気持ち。
私さ、フェチは世界を変えると思うんだよね。
Fetish LAB(日向結う)
一般的な『フェチ』と、ガチ勢の『フェチ』の違い。
3000人以上の性癖と関わって思う事。
今回はフェチについて。
「あなたは何フェチですか?」
とか
「足フェチです」
とか
「お尻フェチ」
とか
「手フェチ」
とか
”フェチ” って言葉を日常で耳にする世になったよね。
日本はさ、色々なコンセプトの風俗がある。
その数は数十種類以上に及ぶわけで。
「会ってセックスして終了。」
って言う風俗概念は殆どないんだよね。
そんな助兵衛な国だから、フェチっていう言葉も抵抗なく浸透したんだと思うのよ。
例に挙げた ”フェチ” っていう言葉、ポップなニュアンスよね。
カジュアルというかさ。
語源であるフェティッシュとかフェティシズムって可愛い感じするよね。
音の感じが。
でも本来の意味を簡単に並べると、
- 物神崇拝。呪物崇拝。
- 異常性欲の一つで、異性の髪や衣類など、生命のない対象物に対する強烈な性衝動。
なのよ。
日常でよく耳にするフェチとは
ちょっとニュアンス・イメージが違うよね。
ちょっとこれはヘビーよね。
性の対象として異性を見たときに、
ポイントとして魅力を特に感じる部分。
ってのが、いわゆる日常でよく使う、一般的な
『フェチ』
という言葉のニュアンス・イメージなんじゃないかな?
私がよく言ってる『フェチ』は、本来の意味の方。
昔々から、ひっそりと、
でも絶対数の人が居る本来の意味の『フェチ』の世界。
同じ人間でも到底共感出来ないフェチのある世界ね。
理解はできるけども^^共感できるとは限んないのよね^^;
なので今回は、
本来の意味をガチのフェチとして、
いわゆる日常で使うのを一般的なフェチとしてみるね。
ガチの足フェチは、
自分好みの足を持つ人じゃないとセックスが出来ないのよ。
興奮しないの。
その”足”が性的対象で、その ”足” を持つ人間には興味はない。
自分好みの足が絶対条件で、”人間”って所は二の次。
ってゆう事なのね。
一般的な足フェチは、
自分好みの足を持つ”人間”に興奮する。
人間も込み込みなわけよ。
”人間ありき”で、足が魅力的・好きな所。
って感じ。
この差がね、今のフェチ界では大きく開き続けているのよね。
天と地ほどの差だからね。
もう一つ例。
”髪フェチ”
ガチの髪フェチAさんは、
染めた事のないバージンヘアーの黒髪ロングが好き。
理想に叶った黒髪ロングヘアーであれば、
その髪の持ち主の容姿はどうでもいい。
なんなら、髪だけでいい。
”髪”に興奮するのでそれだけでいい。
一般的な髪フェチBさんは、
黒髪ロングの女性が好き。
黒髪ロングの色白で華奢な清楚な女の子がいい。
髪の持ち主ありきなので、容姿や雰囲気も大事。
トータルで好みの子がいい。
みたいな感じ。
違いはわかってもらえたかしら?
今回は髪フェチと足フェチをざっくり例にしたけど、
一般的な髪フェチの好みがその人によって色々あるように、
ガチな髪フェチの好みもその人によって様々。
ガチ勢的には《好み=条件》に近い感覚かな。
一般的な『フェチ』が人間などの命ある物ありき
なのに対し、
ガチな『フェチ』は命ある物は度外視。
巨大建築物フェチは巨大建築物そのものに興奮するのよ。
性的に。
私のように活字・言葉フェチは字の形や歴史そのものに興奮するのよ。
性的に。
性的にという事は、トドのつまり、”ヌケる”って事。
一般的な『フェチ』もガチ勢の『フェチ』も
どっちも素敵と思う♡
どっちも『フェチ』だから、ややこしいから、
ガチ勢の『フェチ』を「フィリア」に変えてみたらいいんじゃないか?
という提案を最近至る所でしているので、次回はフィリアの話!
Fetish LAB(日向結う)
産まれて初めて ”豚のおまた” を食べた話。そして感動した話。
精肉よりホルモンを愛する日向結うです。
この間、ホルモン屋さんに行ったのよ。
そのお店にね、
「らっぱ」
っていう部位があったの。
らっぱとは、
なんと!
雌豚のおまた!!
正確には産道。
らっぱのように先が開いているから ”らっぱ” だそうで。
同じ雌・人間のおまた族としては…
複雑な気持ちながらも食べてみたい!
食べてみたい好奇心が勝ち、注文!
出てきたのがこちらの写真↓
おそらく産道を縦に切っていると思われる。
見た目でわかるかな…
焼く前のおまたは硬い!
そして筋張っている!筋肉質!
「これは結構歯ごたえあるやつかしら?」
と予想しつつ焼いてみる。
焼いた結果…。
もちもちになった!
箸で持った感じも柔らかくまとわりつくように変化。
食べてみると…
もちもち!
歯に絡むようなネチっと感もある。
焼く前からは想像もつかなかった食感!
逆に自分のおまたに指入れた時のイメージが流れた。
味は癖がなく、食べやすい。
私、感動しちゃって。
産道は子宮とはまた違うけれども、
やっぱり、『おまたは冷えていると硬くなるんだな。』と。
『温めるとまとわりつくように柔らかくなるんだな。』と。
雌の真理に触れたような気がしてすごく感慨深い気持ちになったのよ。
『この柔軟さが、女性性なんだな…”女”を私は今この豚を通して体感している…。』
そう思えて感動したの。
生を頂いた豚に深く感謝の気持ちで全て食べたわ。
らっぱだけの話ではないけれど、
改めて生を頂く事をありがたいと感じ、
女性の身体の神秘を感じた日。
日向結う。
言葉のイメージと意味が面白い話。
新潟県出身の私。
方言、あります。
っていってもSVOC全部が方言ってわけではない。
だから上京して標準語を意識する事もなかった。
ただ、日常会話のふとした時に標準語になおせない言葉を見つけてしまう。
ちょうどこの間も、友達とばあちゃんについて話していた時の事。
私「うちのばあちゃん…………ねえ、多分通じないと思うけど、てっこってわかる?」
友「てっこ?わかんない。」
私「だよね。うちのばあちゃんてっこなんだよ。…てっこってわかんないよね。」
友「標準語にすると?」
私「……これ!って当てはまる単語はない。てっこはてっこなんだよ。」
お互いのばあちゃんの話から完全に ”てっこ” の話へ。
私「強いて言うなら、おおざっばとか乱暴とか雑とか適当とかガサツとかをいい感じにちょっとずつブレンドした感じ。」
友「雰囲気はつかめた!」
一応通じて解決したんだけどね。
この、言葉の持つニュアンスってすごく繊細よね。
日本語はわりと意味と単語がワンセットになっているけど、
方言ってニュアンス重視で結構ふわっとしている事が多い気がする。
”こうゆう雰囲気の時に言う言葉”
とか
”てっこみたいにいくつかの単語の意味が複合する言葉。”
とか。
だからふとした時に今回みたいな会話が起きるのよ。
私たち人間は ”言葉使い” なわけだけど、
”言葉使い” って魔法使いみたいでいい感じ♪
一つの単語に対するイメージってあるじゃない?
例えそれが同じ意味のモノだとしてもイメージって違ったりする。
例えば、
《古い》
この言葉の意味は、「物事が長い年月を経ているさま」。
同じ意味の言葉は、
- レトロな
- 時代がかった
- ビンテージの
- 古風な
- 昔からの
- 歴史ある
- 年季がかった
- 年代物の
- 骨董的な
など。
それぞれイメージは違うんじゃないかしら?
それからもう一つ。私たち日本人は漢字圏の人間。
同じ漢字圏でも国が違えば、言葉の意味が変わるのよ。
《奇怪》
日本にある言葉。意味は、
「常識では理解できない程に不思議な事。けしからぬ事。」
ところ変わって中国語での意味は、
「変わっている。こっけいである。おかしい。不思議。」
似たような意味に感じるかもしれないけど、
日本語ではけしからぬがある通り、叱責の意味的要素が強いのに比べて、
中国語はこっけいがある通り、叱責の要素はないのよ。
「なんか今日前髪変だよ。」とか言う時の ”変” のイメージ^^
こうやって一つの単語を取っても様々な色がある。
そうゆうのを考えながら言葉を組み立てていくと文章になる。
文章はいろんな色が混じり合った無限の世界。
今日は言葉フェチなブログでした^^
日向結う。
文章のおもしろさ。字のおもしろさ。そして勝手に筆跡鑑定に出された昔話。
文章はその人の内面が出るもの。
他人の文章を丸ごとコピーしない限り、
その人の内面がどうしたって出ちゃうのよ。
単語の選び方
動詞の使い方
語尾の使い方
行間の空け方
記号の使い方
などなどなど…
文章の中にはその人の情報がたくさん詰まっているもの。
字だってそう。
筆跡ってやつよね^^
筆圧
とめ・はね・はらい
略字
大きさ
並び方
などなど…。
字にもその人の内面が詰まってる。
”産まれてからこれまで生きてきた間に定着したもの”
もあれば、
”文章を生み出してるまさにその時のもの”
もある。
小説でも日記でもただのメモでも、
ブログでもFacebookでもね。
絶対出るの。書いている人自身が。
例えば、Facebook。
仕事メインのページだとしても日々の事を綴るわけだから、
やっぱりその人の個性が出るよね。
タイムラインに投稿するって事は、するなりの意味があるのよ。
その出来事に心が動いたから ”投稿” っていう行動をする。
感動・嬉・怒・困・悲・楽・萌・燃
とかの感情の動きがあって、それを
→伝えたい・反応を知りたい・見て欲しい
と、行動に移す。
その文面から個性がチラリ・ポロリするのよ。
擬音が多い人・そうじゃない人
数字が多い人・そうじゃない人
詰めて書く人・そうじゃない人
とか
仕事記事の合間のプライベート記事で
天気の事が多い人・そうじゃない人
草花の事が多い人・そうじゃない人
食べ物の事が多い人・そうじゃない人
などなど
おんなじ職業の人同士だとしても全くおんなじにはならない。
その人の色がでるし癖がでる。
よく使う言葉も人によって違う。
どんなにガッチガチにブランディングしてても、
自分で考えて書いている限りポロリしているものなの。
そこから、
この方はこんな人かしら?
こんな一面もあるんじゃないかしら?
ってその人像をほわわわんっとイメージするのがワクワクする^^
そしてなぜかピンとくる。
ジャッジとはまた違うのよ。
「この人はこうゆう人!!」
って決めつけたらそうゆう目でしか見れなくなるからね。
人は多面で奥深いから、文章で全てが完璧にわかるわけじゃない。
ただ、文章は ”その人らしさ” が滲むのは確か。
きっと誰しもが、文章を読む時は無意識に書く人の人物像を想像しているんじゃないかしらと思うわ♡
私の場合は昔から書いた人を思いながら文章を読むのが癖でね、
小説を読んでそのあとに作者の伝記や自叙伝を読むのが楽しかったの。
科学的なDNA鑑定があるように、筆跡だって鑑定出来ちゃう世の中よ。
その人が直筆で書いた文章だったらもっと色々ポロリするわよね。
19歳の頃かな。
愛人をやってた時期があったんだけど。
彼はちょっと束縛しがちな人だったのね。
別れ話の最中に一度手紙を送ったの。
そしたらね、彼はそれを筆跡鑑定に出したのよ!
私超びっくりよ!!
彼「この間もらった手紙なんだけど、筆跡鑑定に出して
君の心理状態を分析してもらったんだ。
何かに怯えているの?もしかして誰かに脅されている?」
こいつまじか?!ってなったわよね^^;
別れ話を出したあとに彼から恐ろしい手紙と共に大量のバラの花が送られてきたのよ。
手紙の内容に触れると長くなるからまたの機会にするけど。
それで、私も手紙で返信したのね。
そしたらこれよ!筆跡鑑定て!
私「あなたに怯えています。誰にも脅されていない!あなたがもう怖いです。」
そしたら彼やっと解ってくれて、無事に別れられたんだけどね^^
その時初めて、筆跡で心理状態まで分かっちゃう事を知ったのよ。
昔話はこの辺で^^
話が私の人生で一番恐怖した時代にそれちゃったけど、
それくらい字や文章ってその人のパーソナルな部分に関わっているのよ。
そしてそれがその人その人の味であり、カケラであり、色であるのよ。
日向結う。
自分がじぶんで居れる場所。自分の心が安全・安心な場所。私にとってそこはカンボジア。パート2
前回の記事
自分がじぶんで居れる場所。自分の心が安全・安心な場所。私にとってそこはカンボジア。パート1 - ないしょ安置所
前回はカンボジアという国の事、カンボジアの人の事をかいたのよね。
今回はカンボジアと私の事を書こうと思うわね^^
カンボジアに行った時の私の好きな過ごし方。
一つ目はいつも泊まるゲストハウスがあってね。
そこにはハンモックがあるのね。
そこに揺られての〜んびりするのよ。
パソコンをカチャカチャしたり、うとうとしたり、滞在している日本人と話したり、カンボジア人と話したり…
こんな感じ^^
それからこんな感じ^^
私にとってそれは何にも変えられないリラックスの時間なのよ♡
で、二つ目はお散歩がてら市場に行く事。
観光客が全くいないローカルな市場で地元の人たちに混じってお買い物をしたり、市場そのものの空気を満喫するのよ。
最後三つ目はお寺にお参りに行く事。
これもお散歩がてらね。
地元民が王様の庭って呼んでるガーデンにお寺があってね、そこでは地元の人がいつも参拝をしているのよ。
カンボジアは仏教とヒンドゥー教の2大宗教で、そこは仏教のお寺。
お寺の脇で綺麗にアレンジメントされた蓮の束とお線香を買って、靴を脱いで堂に入る。
堂には2体の仏像がいて、先ずジャスミン水で仏像の手や足を清める。
それから仏像の前に座って三度軽く五体投地をした後にな〜む〜。
のんびりまったりだけじゃなくて子ども達ともよく遊ぶ♪
みんなキラキラの笑顔でしょう?♡
この笑顔が大好きなのよ^^
のんびり気分の赴くままに居れるのが私にとってはカンボジアなのよ。
ここにいる時は色々な事の意味がなくなるのよね。
だから、
- お化粧もしない。
- ブラジャーもしない。
- いっそパンツも履かない。
日本にいる時は当たり前にしている事なんだけど、
「お化粧して一体なんの意味があるんだろう?」
とか
「下着窮屈><」
とかね。
愛想笑いもできなくなるし、人見知りもしなくなる。
というかする必要がなくなる。
何ていうのかな…ここにいると魂がむき出しになる感じなのよ…。
私は安心で安全。
私はわたしでしかなくて、空気を読んだり・気を使ったり・取り繕ったりなんだりした所で私でしかないのだ。
っていう感覚に心と体が勝手になるの。
それで、今まで心や体に装備してたもの全部外してただのシンプルな私になるのよ。
そうしてると思うのがね、
「あぁ、人間て7つの大罪の権化だわ…。」
「今の私は怠惰でしかないわ…。」
って事。
7つの大罪は
傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲よね。
今回はパートナーと一緒の旅だったから ”色欲” と ”嫉妬” もあったわ♡
魂がむき出しになるから、そうゆう人間として目を背けたい感情もありありと見えてくるのよ。
でもね、見えたせいで不快な気持ちには不思議とならないの。
それら感情をただそのまま感じるだけ。
- だらだらしたい。
- お腹すいた。
- ちょっとベタベタしたい。
- なんであの子だけ個人にお土産買った?
感じてそのまま外に出す。
それだけ。モヤモヤとかもしない。
うまく言えないんだけど、普段は ”自分はこうである!” みたいなのを心を装備する事で作っていて、それが機能して社会が回ってるんだと思うの。
でもそうやって頑張って社会と自分を考えなくていいから、装備をしている必要もないし、そのまんまのほほーんといれるんだと思うのよ。
こうゆう感情があるのが私なんだな…ってただただ感じて、
土地の・人の空気を感じている時間。
そんな時間を過ごしていると私がわたしの心と深く繋がるのがわかって、私はわたしと仲良くなれてるって感じる。
今まで生きてきた中でたくさん身に付けていた装備を全部外して、むき出しの私で居れるのがカンボジアだったのよね♡
今は日本でもそんなに装備せずに居るけど、それでもカンボジアは私にとって特別な場所。
人間にとって一番大事な ”生きてる” を全細胞でビシビシ感じれる場所。
最後に、
なんやかんや言いながらも、人は毎日戦ってるからね。
社会ってゆう大きなモノサシと自分のモノサシで。
自分のモノサシと自分のモノサシとで戦う時もあるよね。
たっくさんの情報が溢れてる世の中で、自分を守るのが大変な時はたっくさんあるのよ。
こうやってブログを書いているのも、読んでいるのも、
情報のやり取りで、思考のやり取りをしているのよ。
時には自分がどっかいちゃう事だってあるし、わかんなくなる事だってあるわよ。
自分軸が大事とか、マインドが…とか考え方…とか法則が…とか
いろんな事が言われてる世の中だけど、
その正解は自分しか持っていないし、それを見つけようと日々頑張ってたりするわけだから、自分が安心でリラックスできる、装備を全部外して魂のまんまで居られる場所があるといいわよねと思うわ。
あなたの魂がリラックスできる場所はどこかしら?
日向結う。
自分がじぶんで居れる場所。自分の心が安全・安心な場所。私にとってそこはカンボジア。パート1
実は私、昨日までカンボジアに居たのよ。
心と体のリフレッシュ、してきたわ♡
カンボジアはね、私にとってとても大事な場所なのよ。
初めて訪れたのは2011年。
日本との違いがあまりにもありすぎて脳みそのシワが一回無くなって造り直されたみたいな衝撃だったわ。
今までの自分の常識を一瞬でぶっ壊されたのよ。
それまでも海外は行っていたし、初海外で大はしゃぎ!ってわけではなかったんだけどね。
ショックとかの衝撃じゃなくって、
初めての土地なのに、
こんなにも生まれ育った日本とは違うのに、
自分にぴたっとハマりすぎちゃってそれがさらに衝撃的だったのよ。
その次の年には1ヶ月半位かな?滞在して、ますます大好きで特別な場所になったの。
それから1年に1・2回とか2年に1回とかで行くようになって…。
今回で6回目。
なんでカンボジア?
って思うでしょう?
私もそう思う。
なんでカンボジアが良くて、なんでこんなにも求めるんだろう…?
昔から考え屋さんな私にとって、カンボジア人のシンプルな考え方が沁みたんだと思うのよ。
ちょっと、私が感じているカンボジアの人と国について書くわね。
あくまで主観だし、カンボジア人って言ったって色んな人がいるからね。
先ずは歴史からね。
カンボジアは最近まで酷い内戦にあった国。
まだそれから30年位しか経ってないんじゃないかしら。
ベトナム戦争時代アメリカとベトナムに板ばさみにあって、結果、長い内戦が始まったのよ。
国をまっさらに戻してから再築するという、まさに破壊からうまれる創造を実行したのよ。
史上最悪な内戦時代は毛沢東にぞっこんだった ”ポルポト” という世渡り上手な男が統治していた時代なんだけどね…。
子どもは親から離され集団活動、新国のための洗脳再教育を受けたわ。
それから知識人とされる者は次々と収容され・労働を強いられ・殺されたわ。
知識人の枠は広くって、教師など先生と呼ばれる者をはじめ、メガネをかけている・腕時計をしている・文字が読める・海外に行ったことがあるや、手が綺麗…などなど、ぶっとんだ理由で再教育という名の処刑をされていったのよ。
ポルポトは ”国を指導する自分たち以外の知識人はいらない!”って考えだったの。
それによって、大好きな毛沢東の原始共産主義を自分なりに実践しようとしたわけ。
マルクス主義を中国風にアレンジした毛沢東の原始共産主義を俺なりにアレンジしたポルポトね。
党の名前は ”クメール・ルージュ”。
子ども達は再教育後、社会の重要な役割につくことになるの。今まで重要な役割にいた知識人は収容されてるか、殺されてるか、だからね。
それで子どもと大人が逆転する社会になるの。
お医者さんも子どもよ。
地雷は優秀な兵士として重宝され、沢山たくさんばら撒かれたわ。
それから長い間悪夢の時代が続き、殺された人は200万人とかそれ以上とか。
ポルポトから解放された時のカンボジアは国民の85%が14歳以下だったとか。
とんでもな歴史なのよ。
それからカンボジアの人々ね。
そんな過酷な時代があったにも関わらず、彼らは南国特有の穏やかさを持っていてね。
”今日の夜ごはんを家族で一緒に食べれたら幸せ100点”
って考え。
捉え方を変えたら ”その日暮らし” って思うかもしれないけど、大事な感覚だと思うのよね。
最近の日本では忘れられかけてる感覚だなと…。
ニュースで言われているみたいに、日本と比べたら物質的には貧しい国かもしれない。
卵と砂糖は大事なカロリーだし、太っている人はお金持ちだしね。
でもカンボジアに行っていつも思うのは、心がお腹がいっぱいに見えるのよ。
胃はお腹が空いてるかもしれないけど、心がお腹いっぱいに見えるの。
逆に日本に帰ってくると、胃はお腹いっぱいで、心がお腹すいてるように見える。
子ども達の目はビー玉みたいにキラキラ輝いている。
今を ”生きてる” のがビシビシ伝わるのよ。
どんなにおんぼろな家に住んでいても、着る物がたくさんなくても輝いて見える。私には。
そして彼らは大人も子どもも驚くほどに人懐っこい。
彼らはチラ見をあんまりしないのね。
気になったらジーーーっと見るのよ。
で、目が合うと笑ってくれる・手を振ってくれるの。
大人でも子どもでもね^^
で、仲良くなれる。とてもフレンドリー。
あんなに酷い虐殺の歴史があったのによ?
私の仲のいいカンボジア人達は、
「嫌なことがあったり悲しいことがあってもそれもひとつの経験で、今こうして笑ってるからいい。楽しく笑っていられるのが一番。」
ってみんな言うのよ。
楽天的とも言えるけど、私はその感覚がすごく好き。
全部がね、複雑じゃないの。
市場に行けば野菜も肉も魚も服も、雑貨も美容室もネイルサロンもぜーんぶが垣根なくあってね。
お肉も野菜もお魚もスーパーみたいにパックされずそのままで並んでいるの。
例えばお肉。
豚の頭から内臓まで全部がそのままパーツ切りにされて並んでいるの。
衣食住が丸裸に密接で、 ”生きる” を強く感じるのよね。
楽しむとか、笑うとか…
誰かが死んで悲しいとか…
誰かを想うとか…
ごちゃごちゃ考えずにただその感情をそのまま感じる。
すごくシンプルだけどなかなか難しいこの事を自然の摂理のように体現している気がするのよね。
カンボジア人と日本人の共通点もたくさんあってね、そのうちのひとつが妄想力の無さ。
真っ白な紙に「好きな物を書いていいよ。」っていうと何にも書けない子どもが多いの。
日本とカンボジアでは理由は違うけどね。
それはちょっと悲しいなと思う。
…いろいろ書き挙げたけど、もっとたくさん書く事あるけど、
良い・悪いの話でもなけりゃ、優・劣の話でもないのよ。
良いところ・良くないところはどこにだって何にだってあるからね。
これでざっくりカンボジア像が浮かんだかしら?
カンボジアの事はここまでにして次回、”私にとって” の部分、核の部分を書くわね^^
今回は長い文章になってしまって、ここまで読んでくださってありがとうございました^^
最後に今回に写真、いくつか貼っておきます!
日向結う。